美大生のときに風景画を描いていて、どこで終えていいかわからくて、やたらと白っぽくしてしまったことがあった。
その時、先生に「どうして?」と聞かれて、応えられなかったんだけど、今なら、「どうしていいかわからなくなった」と言える。(もしかして、「よくわからない」とは応えたかもしれないですが。。)
そのことは、割と今でもはっきり覚えている。
今思うと、要するに仕上がってたのに、手を入れ過ぎたんではないかと思っているのだけど、その当時はよくわからなかった。
だから、体感として、描き過ぎに注意してるところがある。
今、時々描き過ぎて、壊してしまうことが怖いと感じるときがあるのだけれど、それもあまり恐れすぎては、描けなくなるし、良き作品にならない場合もあるので、限度の問題かなとは思うけど。
この絵は、手を入れることで、もう一段階良くなりそうだと思ったら、恐れを乗り越えて描かなければいけないと思ってる。
最後の仕上げの段階は、そういう自分との闘いということになってくる感じもある。
まれに、ここで終わりだ!と思うこともある。
そういうときは割と気持ちいいのだけれど。
でも、、時間が経って見ると、あれ?ということもあるからね。。
もちろんそれ以上描かなくていいという絵もたくさんありますが。
時々、(恐れ多いですが、)ダビンチさまは、一生「モナリザ」を描き続けて、あの領域にいったのだな~と思う。
そう考えると、、壊してしまう恐れはそんなに感じなくていいのかもしれないけれど。。
白っぽくしてしまった風景画は今も実家にあると思う。
本当は、そうする前に筆を置くべきで、次の作品に取り掛かれば良かったんだろう。
たぶん今ならそうすると思う。
何か描き足りない気分で無理やりその絵と取り組んでも、きっと壊してしまうだけ、、という学びの絵として、わたしの中にある。
京都の踏切を描いた絵で、確か嵐電の踏切です。
実際そこにキャンバスを立てて描いた絵でした。
そうして絵を描いてると思わぬ出会いもあったりするのですが、その話は長くなるので、また次の機会にしようと思います。
とりとめのない話ですが、なんとなく思い出したので忘備録として書きました。
以前も、どこで絵を終えるかというお話をしたような気もしますが。。
では、このへんで。
お読みくださり、ありがとうございました!