コンプリート・ワークスから、また少し抜粋しつつマイケルの仕事ぶりについて書いていきますね。
ファンの方はよく知ってることとは思いますが、あしからずです!
クインシーから離れて作った最初のアルバム『Dangerous』を作ったときの話です。
アルバムのリリースは1991年になります。
時代的には音楽の流れにも新しい波が次々とやってきます。
そのあたりの詳細は長くなるので割愛しますが、、すっごくざっくり言うと、、グランジやギャングスタ・ラップなどが全米を席巻し(つまり、ニルバーナーとかのグランジバンドやMCハマーなど)、ストリートから生まれたニュー・ジャック・スイングなどの新しい音楽ジャンルが次々生まれてきていた頃です。
もちろんそれまでに売れていたスターたち(マイケルはもちろんプリンスやマドンナ、ジャネットなど)も健在で、いろんなジャンル、タイプの音楽がよく売れていた時代という感じでしょうかね。
(そのあたりの詳細は「コンプリート・ワークス」に詳しく出ていますので、興味のある方はぜひお読みくださいね。)
前作の3つのアルバムをクインシーと作ってきたマイケルですが、契約が切れ新たに契約更新はせず、いよいよクインシーから離れて自分ですべてを取り仕切る立場で仕事を始めます。
マイケルは充分スターの地位を確立していたので、ただ同じ作業を繰り返すのではなく、新しい挑戦、新しい音楽、新しいイメージへと飛び立とうとしていました。
クインシーとは、喧嘩したのではなどというつまらない憶測も流れたようですが、マイケルはずっとクインシーを尊敬していましたし、大きな愛情を持っていたようです。
そのことについての抜粋を、、
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ミュージシャンのブラッド・バクスターはこう語る。
「マイケルはクインシーに腹なんて立てていない。クインシーに対してはいつでも尊敬の目を向けて、最高の礼で接していたよ。
しかし、『Dangerous』に関しては、彼はAからZまで自分一人でコントロールしたかった。簡単にいうと、自分がボスになりたかったんだ。
マイケルは非常に独立心が強くて、自分の成功がクインシーという名の男だけの力で成し遂げられたのではないと証明したかったんだと思う。」
すべての権力を一人で掌握することは彼を自由とエネルギーで満たした。
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『BAD』の制作の頃から、クインシーとマイケルは2つのチームに分かれて仕事することも多くなっていてたようですね。
マイケルがどんどん成長していった証だと思います。
『Dangerous』はニュー・ジャックの生みの親であるテディー・ライリーが、プロデューサーとして参加することになりますが、マイケルにとっても冒険だったようですね。
まだ25歳という若いプロデューサーでしたが、マイケルは新鮮さを求めていたし、ニュー・ジャック・スイングのリズムやビート、質感を気に入っていたので起用することにしたようです。
結果的に、それは大成功でした。
マイケルのこの大胆さというか、冒険することをいとわない姿勢が素晴らしいですよね。仕事に対して常に前向きでチャレンジ好きだったんですね。
わたしはそういうところをとても尊敬しています。
マイケルは音楽について常に新しいものを追求していて、、やっぱり芸術家だったんだなと思います。
芸術家は同じものを創ることに飽きてしまうというか、、同じことするのが嫌いな人多いですよね。。
自分も驚いていたい、、そんな欲求の強い人が多いなと思ってます。
それは芸術作品を作るうえで、結構大事な要素なんではないかと思います。
そういう欲求が強ければ強いほど、凄いエネルギーで創作してしまうように思うので。。
やっぱり新しいものを生み出したい欲求があることっては、大事なんだな。。
つまり、、「破壊」からの「創作」ということでしょうかね。。
今日は、こんなところで。
お読みくださりありがとうございました!